日本人の手によって初めて本格的にビールが醸造された「国産ビール発祥の地」札幌。明治10年に開拓麦酒醸造所が発売した冷製「札幌ビール」は、現在に至るまで途切れることなく販売され続ける日本最古のビールブランド!創業当時と変わらず、豊平川の地下水を使い、昔ながらの製法で作られた開拓使麦酒をはじめ、様々なビールを楽しみ、ビールにまつわる歴史的建造物や工場を巡り、ビール誕生の謎と美味しさの秘密に迫ります!
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札幌は、日本人の手によって初めて本格的にビールを醸造した場所であり、日本人がつくった国産ビール発祥の地といえます。札幌市のビールの年間消費金額は1万5188円で都市別ランキングで第1位。他にも日本で唯一のビール博物館があったり、国内最大級のビアガーデンもあります。「ビールのまち・札幌」はどうできたのか。その秘密を探ります。
サッポロビールの起源は、明治政府が北海道開拓のために設置した開拓使が明治9年9月、札幌に立ち上げた開拓使麦酒醸造所です。現在のサッポロファクトリーの北西側にある赤レンガ館の付近です。北海道開拓使が開拓のために雇った外国人が、現在の後志管内岩内町で野生のホップを見つけ、冷涼な気候が大麦の栽培に適していると提言したのを受け、開拓使は国産ビールの量産に乗り出しました。
しかし、開拓使長官の黒田清隆ら幹部は当初、東京で試作を行うと決めてしまいました。当時、ビールを作るということが文明国の象徴でもあり、外国人にアピールするなら東京の方が適していたからとの見方もあります。この計画が実行されていれば「サッポロビール」ではなく「トウキョウビール」が生まれていたかもしれません。
いきなり窮地に陥った札幌でしたが、開拓使のビールプロジェクトの総責任者・村橋久成と醸造技術者・中川清兵衛のコンビがこの決定を覆します。中川は日本人初のビール醸造技術者として知られ、国禁を犯して欧州に渡り、ドイツでビール醸造技術を身につけて帰国後、開拓使に招かれた人物です。中川が目指したのは当然、ドイツ式のラガービールでした。ラガービールは、低温でじっくりと熟成させて造り、発酵中は醸造所内の温度を10度以下に保つことが求められます。当時の技術だと、冷涼な地で醸造することが必須でした。
村橋は「北海道には建設資材の木材も十分にあり、気候もビール造りに適している」という稟議書を提出。村橋・中川コンビが定めた建設予定地の目の前には、当時フシコサッポロ川という川が流れており、ビールを出荷する際には、この川を経由して東京まで船便で運ぶことができました。また、上流から運ばれてきた木材を貯める貯木場と木材加工所もすぐ近くにあり、ここで加工された木材をビール工場の建築やビール樽作りに使うことができました。ビール造りに最もふさわしい地として選ばれたのが札幌だったのです。
村橋の上申により東京での試作方針は覆り、札幌での醸造所建設が決まりました。この方針転換がなければ、現在のサッポロビールは生まれていなかったかもしれません。村橋の行動は、時代背景を考えると、命がけの行動でした。明治9年9月に工場を立ち上げ、暑さの影響で実際に醸造できたのは翌年の1月だったという事実が、村橋の主張が正しかったことを証明しています。
開業翌年の1877年(明治10年)にビールの醸造に成功した開拓使は、ビール事業の成功をアピールするため、大久保利通ら政府高官にビールを届けました。ところが、送られたビールは全て吹きこぼれ、一滴も残っていません。面目丸つぶれとなった開拓使長官・黒田清隆は「内務卿へ送りたる分、十二本とも噴き出し、一滴ものこりなし。・・・村橋へ厳達、以後のところ注意されよ」という叱責の電報を打ちます。当時は王冠などなく、不揃いのビンに手作業でコルクを閉栓するため、わずかの衝撃でも吹きこぼれが発生しました。さらに問題だったのがビールに含まれる残留酵母です。長距離輸送の途中で温められたビール内の残留酵母が一気に増殖し、このことがコルク栓を吹き飛ばす原因となっていました。
そこで、冬の間に豊平川から切り出した氷を醸造所の敷地内に建てた氷室に保管し、輸送の際には氷室から取り出した氷で冷やすことで酵母の増殖を防ぎました。チルド輸送の成功により、本来の味を損なうことなく出荷できるようになると、開拓使のビールはその品質が高く評価され、日本にビール文化を根付かせるきっかけを作りました。しかし、チルド輸送のコストは経営を圧迫し、1888年(明治21年)には生ビールの製造が中止され、酵母が残らず保管や輸送の際の温度管理が容易な熱処理ビールへと切り替えられました。しかし、熱処理をしない生ビールの風味は根強い人気があり、1977年(昭和52年)に「サッポロびん生」として復活すると大きな評判を呼び、「黒ラベル」の愛称で親しまれるようになります。ついには正式名称が黒ラベルに変更され、サッポロビールのナンバーワン商品に成長しました。
1877年(明治10年)に起こった西南戦争の膨大な戦費が財政負担となり、北海道開拓の予算も大きく削減され、1882年(明治15年)に開拓使が廃止されます。開拓使麦酒醸造所も民間に払い下げられ、札幌麦酒会社となりました。このとき札幌麦酒会社は経営危機に直面していました。ビールを売れば売るほど赤字が膨らむ悪循環に陥っていたのです。
赤字の原因のひとつは「ビール瓶」にありました。当時の日本の技術では炭酸ガスの圧力に耐えられる強固な瓶を作る技術がなく、海外から輸入したり、焼き物で有名な伊万里や有田に磁器製のビール瓶を発注していました。このため、瓶の購入費・輸送費がかさみ、「麦酒の原価よりは瓶の方高貴なり」と新聞に報じられるような状況になっていました。
この危機を救ったのが近代日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一です。渋沢は1887年(明治20年)に札幌麦酒会社の取締役会長に就任し、木造だった醸造所をレンガ造りの近代的な工場へ建て替え、海外から最新の設備を導入するなど、大規模な投資を後押ししました。その一環として、ビール瓶の自社生産を検討し、海外から最新設備を導入し、札幌にビール瓶工場の設立を計画します。ここで、ネックとなったのが、ビール瓶の原料の確保でした。
ビール瓶の原料は主に、珪砂、ソーダ灰、石灰石であり、この内珪砂が70%を占めます。ビール瓶を安価に製造するためには、製造拠点である札幌近郊で珪砂を確保する必要がありました。札幌麦酒会社の担当者は珪砂を求めて札幌近郊の地質調査を開始し、1899年(明治32年)に澄川で大量の珪砂を含んだ火砕流堆積物の露頭を発見しました。この火砕流堆積物は、今から約4万年前に現在の支笏湖上にあった火山(支笏火山)が大噴火したときにできたもので、札幌南部に広がる月寒丘陵と呼ばれる緩やかな丘陵地帯はこの火砕流堆積物によってできています。原料の確保に目途が立った札幌麦酒会社は、1900年(明治33年)に現在の北ガスアリーナが建っている場所に製瓶工場を建設しました。
ビール瓶の自社製造により大きく製造コストを下げることに成功した札幌麦酒会社は明治38年にビール製造量で業界トップに立ちます。翌年には日本麦酒、大阪麦酒と合併し、国内シェア70%を誇る大日本麦酒株式会社が発足し、「スエズ運河以東最大のビール会社」と呼ばれるようになりました。昭和24年には過度経済力集中排除法により会社が分割され、日本麦酒株式会社として再出発しましたが、「サッポロビール」ブランドの復活を望む声が高まり、昭和39年にサッポロビール株式会社に社名を変更しました。
豊富な水源があり、ホップと大麦が栽培でき、さらにはガラスの原料までも産出するこの札幌は、ビール製造が産業として発展するのにふさわしい土地だったのです。SAPPORO BEER TOURISMではわずか2時間ほどのツアーで“五感”でビールを味わい、ビールを楽しむことができます。全国的に見てもこれほどの「ビール遺産」を手軽に回れる街は、他にありません。地元の方はもちろん、道外から来る方もぜひタイミングを合わせてこのツーリズムを体験してみてください。